具体化の賜物

抽象的思考ばかり。

なんでも具体化すりゃいいってものでもない

 

「深淵は覗かない方がいい。」

 

深夜

 深夜5時すぎ。私はうまく眠れずにいた。友人を失ったのである。原因は自分にある。なんたって、私は自殺未遂をしたのだ。それが周りに与えるショックは計り知れない。友人は自殺未遂に驚き、私の前から立ち去るほかなかったのだろう。

 私は自殺未遂をした。私は自殺未遂をした。そのスティグマを背負って生きていくしか道はないのである。

 

気づき

 今回の出来事を反省するのであれば、なんでも具体化すればいいというわけではないという結論になる。

 具体化であったり言語化は、最近では主流になりつつある。それは良い側面があるからである。具体化を用いれば問題の見通しを立てやすくなったり、物事を多面的に見ることができる。数学では「まずは具体例。」とよく言う。抽象的な物事を扱うにあたっては具体化は有用な道具なのである。言語化も問題解決に有用な道具の1つである。具体化については私の書いた最初の記事を参考にしていただきたい。

 

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 しかしながら、具体化には負の側面も存在する。それは、具体化を己に向けたときに生まれる。

 例えば、自分の嫌な部分にスポットライトを当ててみるとどうだろうか。具体化を通すことで自分の嫌なところが丸裸になるのである。自分の嫌なところを直視することは誰にだって耐えられないものなのである。直そうと思えるのであれば100点、普通は萎えるので0点である。

 例えば、自分の生きる意味に焦点を当てるとどうだろうか。具体化を通すと、実は生きる意味など存在しないことがわかる。(語弊があるので解説すると、生きる意味は自分で定めなければ存在しないも同然ということ。自分で定めることが何よりも難しい。)生きる意味がないということを直視してしまうことによって、人は完全に病みゾーンへ突入する。結果自殺をしようとしてしまうのである。これは論理の飛躍のように思えるかもしれない。しかし実体験としてそうなのである。あまり実体験を侮らない方がいいと思う。

 

深淵

 具体化を通して得られる結果は真理により近づいた結果なのかもしれない。なにより、この世に真理なんてものが存在するのかはわからないけれど、具体化や言語化を通して物事をより正確に理解できることは事実である。

 この世の心理とは、人はなぜ生きるのかという疑問に対する答えである。具体化や言語化を通すことによってこの世の心理を探ろうとするのは本当によくない。深淵を覗くときは深淵に覗かれてるのである。いつ引き込まれてもおかしくない。「深淵は覗く必要がないのなら覗かない方がいい。」これが現時点における私の答えである。

 

おわり