具体化の賜物

抽象的思考ばかり。

苦しみを認知した苦しみ

 これは苦しみだったのか、、、と認識したその日から――

 

老いたのではない。

 ここ数か月間の間老いを感じる機会が増えました。「もうこれ以上頑張ると体が悲鳴を上げる!」と言うタイミングが増えたのです。私はここに一石を投じたい。これは老いではないのだと。

 私はただ保身という概念を獲得した結果、老いたと勘違いしているだけなのである。保身は老いではない。

保身という概念の獲得

 私は老いたのではなく、保身ができるようになっただけなのである。自分の体力を分析できるようになり、限界が近づいたらアラートを出せるようになっただけなのである。分析できるようになった結果「これ以上は頑張れない」と言えるようになっただけなのである。

 私は毎日限界まで頑張って生きているので、毎日「これ以上は頑張れない、無理。」と言う瞬間がある。毎日無理って言っていると、もしかして老いのせい?と思ってしまう。老いのせいで毎日無理と言ってしまうのではないかと考えてしまう。若かりし頃はあまり言っていなかったのだから。

 しかしこれはただの勘違いなのである。実は昔と体力はさほど変わっていないのである。変わったのは出力の違いだけである。昔は100%中100%出し切ったら限界だと思っていたものが、現在では体力の監視ができるために100%中75%程度で余裕をもって限界と言ってしまうのである。実際は100%出し切ることができるにもかかわらず、出し切るといけないので7割でもう無理と言うのである。しかしここで勘違いが起きる。75%が自分のフル充電だと思い込んでしまうのである。「これでもう無理ってことは自分の限界は75%なんだ...。」と思い込む。しかしこれは、老いではなくてただの勘違いである。実際の老いはもう少し異なる。

 実際の老化は100%の上限が90%、80%と低い値へ変容していくことである。つまり、体力監視せずに頑張った結果が90%になっていればそれは老化なのである。体力監視をしながら余裕をもって90%で「限界!」と言う行為は老化ではなくて保身である。

保身獲得による苦しみ

 保身により、今まで100%でやっていたことを75%でやることになる。すなわち、できていたはずなのにできないことが出てくるのである。今までできてたことができない、つらい。これが保身獲得による苦しみなのである。

 保身しよう、体力をちゃんと管理して限界が来る前に休もう、というスローガンのもと生きた結果、今までよりもできることが減ってしまう。それは当然である。その結果、日常生活においてもできることが減ってしまい、うまく適応できなくなってしまうのである。

 もちろん保身も大事である。毎日100%で行動して心を壊してからでは遅い。しかし、時には100%を出すべきところもあるのである。それは仕事として遭遇する場面かもしれないし、学業として遭遇する場面かもしれない。そういった体力の使い分けまで含めて、上手く保身と向き合いたい。

 

おわり