具体化の賜物

抽象的思考ばかり。

殺意と許し、諦め

 

 

 

ふと気づきました、殺意の原因は元カノであると。

 

 

殺意

 こんにちは。

 ここ数ヶ月の間、なんとなく浮かぶ殺意に悩まされていました。なんとなくこの世の全てが憎くて、なんとなくやるせない気持ちになり、気持ちの行き場がなくなってしまい。もう全てどうでもよくなって「全員殺せば解決じゃん」と自暴自棄になる。

 

 しかし、殺したいという欲求は良くない。当たり前の話です。この社会で殺したいという欲求は常識的な思考からは外れており、持つべき欲求ではないのです。ひとことで言えば倫理的ではありません。

 また、殺したいという欲求を持っていては気持ちよく生きることができません。あなたは、原因不明の殺意がふと湧き上がり続ける生活をしたことがありますか?経験者ならわかりますが、とても気持ちのいいものとは言えません。ひたすら辛く、しんどい生活です。一度経験してみれば容易にわかることです。

 

 これらの理由から、私は殺意を消し去りたいと強く願うようになりました。そしてついに本日、真剣に向き合うことにしました。夏休みなので余裕が有り余ってるのです。

 

原因は何か

 第一に、殺意の原因を探してみることにしました。原因のない殺意はありえません(サイコパスでない限り)。探していると、ふとある顔が浮かびました。それは元カノの顔でした。

 自分でも恐ろしくなりました。しかし事実なので向き合うしかありません。なぜ元カノに殺意が湧いているのか、その理由は元カノにイライラしているからでしょう。イライラの理由は省略します。納得されるような理由ではないためです。

 

殺意を消し去る

 第二に、殺意を消し去る方法を考えてみました。殺意の原因はイライラです。イライラの原因は許せないことがあるからです。では、許せればいいのではないか?と考えてみました。しかし、許すとはどういうことなのでしょうか?

 人間は無意識のうちに許すという行為をしていますが、その実態は謎に包まれています。なにをどうすれば許したことになるのか、それを言語化できる人間はなかなかいないと思います。

 わざわざ言語化なんてしなくても許せばいいじゃんと言われそうですが、そう簡単な話ではありません。人間は口では「許した」とは言いつつも許していないことが多々あります。実際に何かを許してみてください。口では許したと言ってみても許せないものがあることがよくわかると思います。

 

許し

 そこで、許すとはどういうことなのか、哲学の観点から調べてみることにしました。許すという言葉はキリスト教の文脈でよく見かけます。ゆえに、宗教に関連のある哲学の分野で既に研究されているのではないかと考えたのです。見つけたのはとあるサイトでした。

philofolio.com

 

 ここで注目したい内容は

“ 相手を認識できなければ、共に生きていくことを意思することができません。”

という箇所です。参考サイトによると、許すとは

“ 個人の価値観を毀損されたあとに、それでも共に生きていくという意思”

ということです。簡単に言うと、許すとは「思ってたことと違うことをされてもあなたと生きていきます。」と願うことです。ここで重要な箇所は、「あなたと生きていきます。」という箇所です。これは相手がいないと成立しません。 “ 相手を認識できなければ、共に生きていくことを意思することができません。”の意味はそういうことです。

 以上のことを踏まえると、許すには相手の存在が必要であり、逆に言うと相手がいなければ許すことができません。ここで現実に戻ってみます。私は元カノとの連絡手段をすべて遮断されています。つまり元カノを許すことが不可能になってしまいました。許すことができないので、殺意も消し去ることができません。あーあ。どうしましょ。

 

諦め

 すべてを諦めて、殺意を持ち続けるしかないのだろうか?という悩みを抱えてこの記事を書いています。しかし殺意を持ち続けた先には破滅しか待っていないように見えます。一体どうしたらいいのだろうか。どうしたらいいのだろうか。どうしよう。つらい。

 

おわり