具体化の賜物

抽象的思考ばかり。

塩と告白の違いとは

小話

〜塩〜

 

A「ちょっとそこの塩取ってほしいな。」

B「嫌だ」

A「なんで?」

B「なんか気分じゃなくて」

 

 

〜告白〜

 

A「僕と付き合ってほしいな。」

B「嫌だ」

A「なんで?」

B「なんか気分じゃなくて」

 

 

 この違いがどこにあるのかを最近よく考える。塩の例ではBが嫌なやつに見える。

 一方で告白の例ではBは嫌なやつに見えない。むしろ人によってはAが悪者に見えるかもしれない。

 

 人間は無意識のうちに、塩を取るという単純作業ならば押し付けていいと思っているのだろうか。

 逆に、無意識のうちに、付き合うという複雑な作業は押し付けてはいけないと思っているのだろうか。

 

何が違う?

 一般には、告白はしたもの負けである。告白をすれば相手に選ぶ権利が生じる。付き合うか付き合わないかを選択することができるのである。この時点で告白した側は立場が下なのである。仮に付き合わないという選択を下されたら、告白した側は諦めなければならない。

 

 塩を取ってもらう場合を考える。「塩を取ってください。」と言えば相手に選ぶ権利が生じる。取るか取らないかを選択することができるのである。この時点で塩をお願いした側は立場が下なのである。仮に取らないという選択を下されたら?塩をお願いした側は諦めなくてもいいのである。むしろ、怒ってもいいのである。「その程度のこともしてくれないの?」と。

 

 ここで塩と告白の違いを考えてみれば、程度の話であるのかなと推測できる。塩を取るという選択はとても小さいものだろう。他方で、付き合うという選択はとても大きいものだろう。塩を取るという行為は安易にできるが、付き合うという行為は安易にできないのである。ゆえに、以上のような非対称性が生まれるのも理解できる。

 

視点を変える

 しかし、視点を変えてみると残酷な事実が見えてくる。付き合わないという選択もまた(告白した側にとっては)とても大きいのである。告白をするまでに至ったのだから、付き合わないという選択は(告白した側にとっては)安易にできないのである。世間ではこの視点が忘れ去られているように思える。

 

 恋愛ドラマを見ていても、振られた人はみな諦めている。努力して諦めようとする。しかし振った側はスッキリしているのである。これが世間では当然のこととして受け入れられている。なぜ諦めることが当然とされているのだろうか?振られた側は悲しんでいるのに、なぜ振った側はスッキリとしていられるのだろうか?

 

 少なくとも日本においては、「振られたら諦めるべき」という倫理観がある。言い方を変えれば「断られたら諦めるべき」という倫理観である。

 

 

 私はこんな思想クソ喰らえと思っている。眠すぎてうまく言語化ができないため、今日はここで失礼する。

 

 

おわり