具体化の賜物

抽象的思考ばかり。

具体化の賜物

抽象的な言葉

私は数学をやりすぎた。伝えたいことは頭に浮かぶのだけれど、なかなかそれを言語化できずにいる。いわゆる抽象的なことしか言えない人間である。ゆえに具体化というフィルターを通して言語化する練習をしたい。練習した結果、具体化の賜物を得ることができるのだろうか。それこそがこのブログの目的である。

 

ここでいう抽象的なこととはなんなのだろうか。まずはそこから言語化していきたい。

 

一般化という言葉

一般化は数学でよく行われる行為である。特殊な条件で成立することをもう少し緩い条件でも言えるだろうか?という問いは中学、高校、そして大学の数学で頻繁に現れる。

例えば三角形の内角の和を考えてみよう。

上記の三角形を考えよう。内角の和は45°+45°+90°を計算して180°である。上記の三角形に対して内角の和を計算してみると180°になったわけである。

それでは、どんな三角形でも内角の和が180°になるのだろうか?上記の三角形に限らず、ほかのどんな三角形を考えても、その内角をすべて足すと180°であると言えるのだろうか?

(もう少し難しいことを言うと、ユークリッド幾何学の範囲の話ではそう言いきれる。しかしその話はこの記事の本意ではないのでここまで。)

特定の状況で成立することが他の状況でも成立するだろうか?言い換えると、特殊な条件で成立することをもう少し緩い条件でも言えるだろうか?この問い自体が一般化という営みであり、その具体例が上記の話題である。

 

抽象的なこと

ここまで、一般化とはなにかということを述べてきた。次に言いたいことは、一般化すると抽象的になるということである。特殊な条件をより広い条件で言うと、具体性が落ちるのである。

先程の三角形を考えてみよう。

「この三角形の内角をすべて足すと180°になることを示してください。」

という問いがあるとする。この問に対しては実際に足すだけで示すことができる。一方で

「どんな三角形も、その内角をすべて足すと180°になることを示してください。」

この問いになった瞬間に数学アレルギーを発症する人が多発するだろう。これはなぜか?それは具体性を欠くからである。

物の情報量は多ければ多いほど考えようがある。目の前のものを具体的に説明してもらえばしてもらうほど目の前のものを考えやすくなる。

例えば知らない人に会ったとしよう。相手の考えが手に取るようにわかれば、何を話せば相手が喜ぶのか、何を言えば相手は悲しむのか容易に考えることができるだろう。しかし、人は理解し合えないという言葉があるように、相手の考えが手に取るようにわかるということなんてない。相手が何を考えているかなんて、具体的には分からない。つまり知らない人の情報なんてなにもわからないのである。ゆえに知らない人は情報量がないため、相手に何を言えば喜ぶのかなど考えようがないのだ。

同じように、「この三角形」という文が「どんな三角形」になるだけで途端に情報量が減り、考えようがなくなるのである。

抽象的な言葉とは、このような情報量のない、具体性に欠ける言葉のことである。

 

抽象的思考の悪いところ

抽象的なことばかり考えていると、抽象的なことばかり言うことになる。抽象的なことばかり言っていると人とコミュニケーションを取りにくくなってしまう。なぜなら、言葉が出ないからである。

抽象的な言葉とは、情報量のない具体性に欠ける言葉のことである。情報量がないゆえに、なんと言っていいのかわからないのである。ゆえに言葉が出てこなくなり、コミュニケーションが円滑に進まなくなる。

ある映画を見た人が①「面白かった!」と言ったとしよう。その一言だけであれば情報量がなく抽象的である。そこから②「〜というシーンで〇〇が××で...」という説明が入ることで初めて具体的になる。そして、人によっては見に行こうと思えるのである。

私は①だけで物事を考える人間である。なんでもかんでもまとめたがるし、一般化したがるのである。映画の面白いシーンすべてを切り抜いて「面白かった」という感想でまとめて、「面白かった」のひとことだけでその映画を表現しようとするのである。

②を言える人間に私は憧れる。具体的に語れる人間になりたい。そう思って私はこのブログを始めた。

 

これから

この記事が具体的じゃないなと思える日がくるかな。それくらい具体的に書いたつもりです。

実は昔ブログをやってたんですが、それは音ゲー日記でしかありませんでした。もうすこし生産性のある日々を過ごしたいので、これからは思いつくままに、しかしながら自分なりに意味のあることをアウトプットしようと思います。

 

おわり。